tacktack の ブログ

拓です。今度は少しは長く続くかな。

逃げるな!という逃げ口上

周囲を、問題に取り囲まれている。

敵なら楚歌も歌うだろう。

問題は歌わない。

よっぽど気味が悪い。

 

取り囲まれている。

目の前の問題に取り組む。

逃げたい。

活路を見出したい。

目を背けたい。

こっちにも問題がある。

問題は歌わない。

取り囲まれていることさえ、

気付かせてはくれない。

くるくるまわって、疲れ果てるまで、

絶望さえ感じさせてくれない。

眠るように倒れた、

その足元に、

自分の大きさの分だけの

逃げ場があった。

 

ここで倒れよう。

その上に問題が土砂のように覆いかぶさって、

息もできなくなって、

もが苦しむだろう。

 

それがどんなに苦しくても、

死ぬほど苦しくても、

倒れたことを後悔などしないだろう。

そこにはちょうど、ピッタリ僕が倒れるだけの、

場所があったんだ。

 

 

苦しみながら僕は思うだろう。

初めて、未来を思い描くだろう。

その未来で、僕は化石になっている。

苦しそうな顔で化石になりたくないな、

なんて、ふっと一人笑った、

その顔のまま、化石になりたいなんてね。

そんな果てしない未来は、

生きているうちには思いもしなかった。

いつも、問題を片づけることばかり考えて、

笑った化石になる僕のことなんて

思ってもみなかった。

 

 

僕は掘り起こされることもなく、

万が一掘り起こされたとしても、

特別に気が付かれることもない。

砂のような石のような、ただそこにあるものとして、

あるのか

それをないというのか。

そんなことさえ、もう気にならない。

 

生業をえて、えて、

「これから工場を建設する土地は、河岸段丘の上で、過去には果樹園だった。

果樹園の前は、桑畑だった。

その前は、よくわからないが、

縄文から平安時代のころには、竪穴式住居の集落があった。

その数万年前は、山が崩れて、堆積して、

大河が土砂を運んで、そこを削って、

隆起して。氷河期が来て、海進が来て、

地球に生物が生まれて、、、、、」

 

「それがなにか? 全部過去の話じゃない?

どんな工場にする? 来年の生産量は? 売り上げは?

私たちの将来は? 今夜何を食べる?」

 

過去を学ぶことは楽しい。勉強することは快楽だ。

未来を考えることは日常だ。未来を考えることこそは生きることであり、

しかしながら一般には苦役だ。

楽しい、という人はうまくいっている人か、変わった人であり、

ほとんどの人はうまくいっていないか、

うまくいっていないと思い込んでいる。

あるいはうまくいっていると思っていても

”一寸先は闇” なんて、ことわざを知っている。

 

それを楽しむのだ。生きることを楽しむのだ。

それは過去を知ることや快楽に耽溺することに没入すること、

厳しい言葉で言えば逃避することではなく、

生存の手段を、楽しむための技術を身に着けるのだ。

 

生存するための手段とは、つまりは生業だ。

生業とは、人の役に立って、対価を得ること。

 

熟達することで付加価値を付けて対価を得るばかりではなく、

未熟さや、個性や、独特さをさらして、

人に愛されて貢れることも、

それはそれは、立派な立派な生業だ。

脅したり、既得権にしがみついたり、不法組織に所属して犯罪的に稼いでも、

それもまた生業といえよう。

そうして生ききた人は、確かにいるのだ。

 

手段はさておき、

生活に必要な資金を得る。

それだけだ。

ただ、資金は、自然には育たない。

魚を取ったら、野菜を育てたら、

人に買ってもらわなければならない。

だから、人について、知らなければならない。

 

今の時代は、そんなに簡単じゃない。

自分が作ったものを、誰がどのように使うかなんて

分かったもんじゃない。

自分が食べている豆腐の、豆を誰が作っているか分からない。

豆腐だって、豆腐屋さんでは買わない。

買う自分が分からに用に、売る自分もわかっていない。

 

だから、仕組みを知った方がいい。

人が暮らしている、社会の仕組み。

知っていて損はない。

知っている方が得だ。

 

まずは生きて、

願わくば、未来を、できるだけしっかりと見つめて、

それに加えて、過去教養として理解して、、、、

ずいぶんたくさんやることがありますね。

 

ひとまず、明日の準備と、今夜のご飯を決めましょう。

今夜のご飯は、今夜のために。

将来のためのカロリー計算などは、できる方からどうぞ。

 

 

 

 

 

 

根本的なことを問うと、終わらない。

「どうしてこうなったんだろう。」

男性は理屈で理解したがり、女性は目的で理解したがる。

などと言われている。(こどもは女性に近いからオヤジはこどもの心が分からないとも。)らしい、ようだ。

 

私は理解したい。考えたい。理由を知りたい。

「なんで、そんなこと知りたいの?」 と、過去にはよく、女性に問われた。

そこには、

「不思議なことを考える人」という好意と、

「面白くもないことを考えている人」という嫌悪感があり、

ほぼ99%が後者であるが、1%の前者の場合、その10%には、ちょっと期待が持てる。

なんの期待か、などと考えていた頃が、

懐かしい。

 

「なんでそんなことを知りたいのか」

そんなこと、考えたこともない。ただ知りたいだけ。納得したいだけ。

 

なんでこんなところに、この草は生えているのだろう。

鳥が種を運んだから、風に種を預けたから。

どうして歩道のアスファルトの隙間に、大根が生えるんだろう。

どこからどうやって、大根の種はやってきたのだろう。

その種のどんな大根はどんな人が作っているんだろう。

その人はなぜ、大根を作ろうと決めたんだろう。

親が作っていたのを継いだのだとしたら、その親は。

人間はなぜ大根を食べるのだろう。

世界でどれくらいの人が大根を食べているのかな。

 

ド根性大根のニュースを見て、大根の種や花や、大根の一生について考える。

大根の来し方行く末について考える。

飽きることはない。

 

ただ、生産性がない。

 

ごく普通のビジネスマンである私は

ご多分に漏れず、生産性で物事を判断することを、

勤続○○年の間に身につけてしまった。

何にでも、強引に当てはめて評価を下してしまえる、暴力的なツールだ。

「なんで、そんなこと知りたいの?」これは言い換えれば、

だれかの価値観で生産性がないじゃない!、と訴えられている。

 

でも生産性のないことなんて、みんなやっているよね。

あなたが長時間鏡に向かっていることや、

洋服屋さんで逡巡していることなど、

だけど、私はそれについて生産性なんて問いは

口が裂けても発しませんよ。

そんなあなたは、ただかわいらしい。

それについて、根本的な問いなど、発しません。

それ以上の根本など、

僕らの間には存在しないのだから。

 

 

 

好きなことをさせてあげようか

「こどもには好きなことをさせてあげたい。」

などと、自分も含めて、親というものは少しは思うものだが、

なかなかその通りにさせることはない。

 

かくいう私も、息子が「釣りをしたい!」を連発しているにもかかわらず、

条件を付けてみたりして、結局、彼は釣りの時間を削って夏期講習などに通っている。

 

「すきなこと」って何だろう。

本当に好きだったら、何をおいてもやるだろう。

高いハードルを設置しても、それを越えてやるだろう。と、大人は考えている。

だから、「宿題が終わったら」とか「漢字テストで100点取ったら」

などと条件を付けて、親はこどもの好きな時間を奪っている。

こどものやる気を試し、結果に落胆している。

結局。こどもの「すきなこと」とはその程度か、などと、

勝手にこちらの評価軸にはめ込んでいく。

 

こどもは、どうせ、親は聞いてくれない、などと言って、好きなことを捨てる。

こうして、双方はどちらも不幸になる。

好きなことをするとは無条件ではないのだ。

 

親として望むことの第一は、「生き延びること」だ。

こどもたちには近い将来、親の扶養から出て行って、自分の生活を築いていただく。

社会の中で、自分の役割をはたして対価を得ることで生き延びてほしい。

今私たち親が稼いでこどもたちを育てているように、

君たちにも自分の稼ぎで家庭を作ってほしい。

 

願わくば、「すきなこと」で稼いで生き延びてほしい。

 

それが条件だ。第一条件は、生き延びること、生きる力をつけることだ。

生半可な「好き」では稼げないぞ!などと大人の分別で決めつけてしまうわけではないが、生き延びるには「自分の役割をはたして対価を得る。」必要がある。それが第一条件だ。

自分の役割 = 自分の好きなこと になってほしい。

これが親の目指す「こどもには好きなことをさせてあげたい。」なのだ。

 

では、「自分の役割」って、なんだろう。

 

どうすれば息子をつり好きに育てられるのか。

つりが好きなお父さんは、こどもをつりに連れ出します。

いろんな理由で。

基本的には

「きっと楽しんでくれるはずだ!」

 

他にも、

「生き物に触れるのは教育に良い。」

「俺もこどものころから楽しんできた。」

 

そして、何回かののちに、こどもはついてこなくなる。

その理由は、

「暑い、寒い、かゆい、べたべた」

「サッカーの方がおもしろい」

「友達と遊ぶ方が、楽しい。」

 

お父さんは、確信をもって、楽しんでもらえると信じている、

女の子なら、まあ、気持ち悪いとか、暑いとか、許そう。

でも、男の子にとってつりは、絶対に楽しいものだろう?!

無敵で永遠のコンテンツに興味を示さないこどもに問う。

「どうして?楽しいじゃないか!」

ここからは平行線。

 

つりが好きなお父さんどうし、よくかわされる会話。

「うちの息子は俺とつりに行ってくれない。」

「連れて行っても楽しそうじゃない。」

「せっかく連れて行ってやったのに、ゲームばっかりやっている。」

 

最近ではスマホで釣った魚の写真を見せ合う。

どや顔で大物を抱えている写真も、なかなか見ものだが、

息子にイワナやバスをつらせた写真の方が、

お父さんたちには価値があるのだ。

 

私の自慢は、そんな写真がたくさんあることだ。

3歳くらいからつりに連れ出し始めて、

今年、小学校6年生。

今では息子から誘われる。準備もしてくれる。

足と、お金が私の担当だ。

これは、成功体験、と言ってよいだろう。

栄光なき私の人生において、数少ない成功だ。

 

だから、すこし、えらそうに語りたい。

どうすれば息子をつり好きに育てられるのか。

 

 

「分かり易い」デザイン

分かり易いデザイン、とは、多くの人が共感できるデザインと言い換えてよいでしょう。共感には一時の流行や今の気分などの意味も含んでしまいますが、もっと根源的な、いかなる時代、文化圏の元でも人間が持っている、生きるために必要な感情、と、大げさに定義しておきます。

 

今、「深いの反対」の説明を試みています。では、分かり易いデザインとはどんなものでしょうか。

 

例えば、「食事」を例にとります。「食事」は多様な要素が含まれた「深い」テーマです。ここに100人の読者がいたら、同じシーンを思い浮る二人はまずいないでしょう。

場所、空間、テーブル、椅子、姿勢、メンバー、マナー、料理、食器、食品、味、調味料・・・これらが、多様さ、複雑さであり、「深さ」の要素です。

 

ではこの中から皿を取り出します。

日本でも中国でもフランスでも、食事は皿に盛ります。

円形で真っ白で、ふちが少しだけ上がっている形は、料理や文化を問わず重宝するでしょう。

釉薬や焼き物が存在しない時代にさかのぼれば、木をえぐった椀状のものや、葉っぱなどが用いられたことでしょう。

 

皿を使う、皿をあの形にする意図は何か。

  床やテーブルよりも衛生レベルを上げること、

  食品を適量盛ること、

  他の食品と混ざらないようにすること、  など、

この問いには、文化や時代背景や人の好みに関わらず、根源的には同じ回答が来ることが想像できるでしょう。それが意図の「分かり易さ」です。

 

皿の根源的意図は共有されつつも、そこにほかの意図、例えば個人の好き嫌いや

食品との取り合わせ、制作環境、収納条件などが加味されて形状や色柄にバリエーション、つまり「深さ」が生まれてくるのです。

 

「深さ」と分かり易さについて、うまく説明できているでしょうか。

 

当たり前のことを改めて問い直して文章を書こうと思うと、どうしても理屈っぽくなって、筆が止まります。

少し、個人的な体験と趣味に基づく話も書いてみます。

「深い」の反対へ:誰にでもわかるとは

デザインがわかる、わからない、という話題があります。

先ほど来続く、「深い」もそうですが、「何を言っているのかわからない」「何を意味しているのか分からない」 といったデザインに関する話題です。

 

 わかりにくいデザインとは、私が考える限りにおいては、失敗です。ごく稀にある、「わかりにくくするという意図」が達成されている場合、(アラベスク模様のように、偶像崇拝を否定しつつ意味を込めるといった、文化的な背景など)を除けば、です。この時点で、すでに話がややこしい。

 

 誰にでもわかることを目指したデザインに、「ユニバーサルデザイン」があります。

この目指す目標は、誰にでも分かり易いこと、ですが、私が描こうとしている「深い」の反対、とは少し違います。

 

ノーマライゼーションバリアフリーの流れから障害者にも使いやすい配慮を形態化するデザインを示す言葉ですが、駅・空港など、言語や文化の違う人々が行きかう場所で全ての人が必要とする情報を伝えるための表現などもこれに当たります。これらは間違いなくシンプルで伝わりやすいデザインです。

 

空港におけるトイレのピクトデザインを例にとれば、デザインの意図である、トイレを見つけたい、トイレを見つけてほしい、という意図は両側から合意されています。メッセージは、初めから双方が求めあっているのです。行き先案内の場合、行き先を知りたい旅人がいて、旅人にスムーズに動いてほしい運営者がいます。双方は、空港や駅という空間をの機能を利用している時点で、目標を共有しているのですから、コミュニケーションがすでに成立しています。 この点において、私の考える「深い」の反対ではないのです。

 

「深い」を理解するために、簡潔、シンプルについて考えています。

ユニバーサルデザインは簡潔・シンプルでも、「深い」の反対ではありません。

では、「深い」の反対で、誰にも分る、とはどんなものでしょうか。

 

例えば刃物は、よく切れそうな形をしています。

物心ついた子供なら、言われなくても危ないから触らない、という気持ちを起こすでしょう。

それは民族や宗教を越えて同じ感覚を受けるはずです。

「切れるぞ」ということを体現している、危ないことを伝える、

それを意図しているとしたら、こんなに良いデザインはありません。

 

さて、そのものの形を指してデザインというのか、という反論もあるでしょう。

まだ、「深い」の反対を、うまく表現できていないと感じるので、

いくつか例を挙げたいと思います。

「深い」の反対は?

いきなり、濃い話に入ったら、書きにくくなってしまいました。

「深い」について表現する前に、その反対側、描きやすい方について書き進みます。

 

深い話をすることが難しいと同じように、深い意図をデザインすることは難しいです。デザインすることは行為なので、簡単にできる、などという表現力のある人もいるかもしれません。しかし、表現の結果意図が他者に伝わり、思い通り達成できるかはまた別の問題です。 要するに、「深い」話は難しいのです。

 

「深い」の反対は、「浅い」ですが、「浅い意図」では何かを作りあげるような行動にはおよびません。

「深い」は「含蓄のある、複雑な」といった意味であり、それ自体たとえや表現の難しい、一方で使い勝手の良い言葉です。

 

 

「含蓄のある、複雑な」の反対は「簡潔・シンプル」です

シンプルな意図であれば、デザインもシンプルに、受け取る側にもシンプルに伝わり、意図が達成されるよいデザインとなりやすいのです。

 

簡潔な意図、シンプルな意図に基づいて作られたデザインの例をいくつか挙げることします。

意図が実現されている、意図が受け入れやすい、ということを

具体的に共有していきましょう。

「深い」意図をシンプルにデザインする

 

パルテノンがなぜよい建物か。それを説明するためにいろんな角度から考えを整理することにしました。今は「デザインがよい」について、「デザインとは何か」の角度から見ています。

よいデザインには意図があり、それが達成されている。

では、パルテノンの意図とは? という問いになりますが、その答えは多様で複雑です。パルテノンはアテナ神に捧げられた建築です。アテナは都市国家アテネの守り神であり象徴です。アテネ市民統合と政治権力と統治の象徴でもあり、、、ということは専門の文献にあたればいくらでも出てきます。

 

そうした意図を俗な表現で言うと、人に「すごい」「かなわない」「ついていこう」と思わせることです。恐怖や強制ではなく、気持ちを内側から起こらせることが求められます。

 

「すごさ」だけならピラミッドや古墳のように、壮大さを競うことでも叶えられます。しかしそれだけでは民心をまとめて国家を統べるという意図は叶いません。

 

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パルテノンの素晴らしさを私は、複雑で多様な「深い」意図が、シンプルに受け止めやすく形作られていること、そしてそれは建築でしか表現できないものであること、と考えています。

深い意図はその達成がそもそも困難で、達成のためのデザインも難しくなります。アテネ統治という目標がパルテノンによって達成されたとは言えませんし、当時の民衆がこのデザインを受け入れていたかどうかも疑問です。ただ「深い」意図を基によくデザインされ、エネルギーを投入されたものは長い時間に耐えて残ることを、パルテノンが実証しています。以降、またもう少し小分けにして行きたいを思います。

「よい」デザインは「よい」結果とは関係がない。

「デザインする」とは、目的達成のために意図をもって行動すること。

「よいデザイン」とは、意図された通りのリターンが得られたデザイン、と書きました。

この意図のことを、「コンセプト」といいますが、この言葉はここでは使わないことにします。

 

言葉を抽象化することで、別の角度からものが見られるようになる一方で、イメージが拡散しすぎてテーマが分からなくなることもあります。また抽象的な思考に慣れていない小中学生や私の両親などには伝わり難くなることも心配します。便利な用語を改めて見直す、という意味からも、文中に用いる単語には注意を払っていこうと思います。

 

さて、先述の例を使えば、よいデザインは、よい結果をもたらします。喫茶店であればたくさんのお客さんを、基準や標準(standard)であればたくさんの参加者を、スポーツならば得点やチャンスの拡大を得ることができるでしょう。

 

ここで、「よい」に注意することにします。前言を翻すようですが、「よい」デザインは「よい」結果とは関係がありません。ここで言う「よい」とは「善」のことを指します。

 

例えば大量破壊兵器は、文字通り大量に破壊することを意図してデザインされた兵器です。意図したリターンとは多くの被害や死をもたらすことです。

 

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ヒトラーの演説は、その内容が危険で人道的に間違っていると理解されている現代においてさえ、人の心を引き付ける力を持っています。演説の口調ばかりでなく衣装、表情、取り巻きの配置、タイミングなど、それら全てが見事に「よく」デザインされており、民衆を盲従へと導く目的に叶っていました。第1次大戦以降困窮したドイツにあって、歴史上まれにみるリターンを、最悪の形でもたらすことになってしまいました。

 

デザインのよしあしは目的の善悪とは分けて考えます。個人的な好き嫌いも、排除します。一方でデザインが意図するリターンがしばしば人間の賛成を得ることや消費行動、従属行動であるため、心理学や行動学とも関係づけられて語られることが多いようです。今整理しておきたいことは、心理学や行動学との連携はあくまでもデザイン技術。技量の問題であって、デザインする意図とは関係がない、ということです。